2026年1月20日に駒嶽神社里宮と上松Aコース駐車場横の駒ヶ嶽神社を訪れた。
駒嶽神社(駒ケ岳神社)
Google Mapで見ても駒嶽神社の参道がどこにあるか分からない。

国土地理院の地図では参道と思われる道が描かれているが、Google Mapとは違う。Google Mapの方が新しく、実際には赤線の道路①が出来ていた。また、後から分かったが青線の道路②も出来ていた。

①の場所に駒ケ岳神社の案内標識がある。標識の先には一軒家がある。
参道



家の前を通り過ぎ、その家の倉庫前を過ぎると山に入る小径がある。その小径を進むと車両が通れる幅の道に出る。その道の山側に登山三十三、三十八と書かれた石碑がある。特定回数登山の祈願達成で建てたのだろう。その先には寂本神社(しめ縄のある岩)がある。



更に道を進むと嶺の頂に建物が見え、その手前に石碑ひな壇が二つある。手前側のひな壇は法泉講と書かれている。愛知県方面の講らしい。石碑にはしめ縄が飾られている。恐らく新年にあわせて飾ったのだろうか、まだ紙垂が新しい。



奥側にあるひな壇が名古屋春明講で、のぼりには駒ケ岳保食大神とある。最上段には立像と座像がある。石碑には龍雲覚春霊神と書かれている。







境内
これらのひな壇を過ぎると社殿側面の東側から境内に入る。拝殿があり、その中央に祭礼を執り行う舞台がある。拝殿の奥に駒嶽神社の社がある。名古屋春明講の垂れ幕が掛かっている。一番奥に神様を祀る社がある。










境内の解説板の記述
境内にある解説には以下が書かれている。
駒ケ岳神社と奉納太ヶ神楽
駒ケ岳神社の創建はで、棟札によると天文三年七月(1534年)で祢宜徳原長太夫春安が山頂に保食大神(うけもちおおみかみ)と豊受大神(とようけおおみかみ)を勧請して奥院とし、麓の徳原地籍に里宮を建立したのが最初と言われています。
御岳神社とともに山岳信仰として信濃一円は申すに及ばず遠く尾張にも講社があり、信者も数多くおります。山の名のように、馬お会、または養蚕の神としても有名でした。
この神社に奉納される太ヶ神楽(だいだいかぐら)は氏子中の定められた農家の長男に申し送る古くからの一子相伝形式で全部で十三座が祭日に拝殿の舞台で奉納されます。問答で舞うのと奏楽に合わせて舞う二形式があり、三剣の舞、四神五返拝などの舞いは、特に迫力があって素晴らしいと言われています。現在は五月三日の例祭と六月最終日曜日の駒ケ岳開山式に奉納されます。
長野県指定無形文化財、国選択無形文化財に指定されています。
太ヶ神楽十三座
岩戸開舞、御神入舞(ごしんにゅうまい)、病気平癒幸神舞、神代御弓舞(かみよおんゆみまい)、陰陽津賀井舞、豊年御子舞(・みこのまい)、四神五返拝(ししんごへんぱい)、止雨武多井舞(しうぶたいのまい)、岩戸別神鈿女舞(いわとわけがみうなめのまい)、通常津賀井舞、大宝舞、三剣舞、六神行事(ろくしん・)

境内の裏側には小さな祠が幾つか祀られている。



正面参道
先ほど境内に入ってきた鳥居は参道ではない。参道は拝殿の正面に続いており、立派な鳥居と常夜灯が設置されている。鳥居と境内の間には社務所がある。駒ケ岳神社が馬と養蚕の神様だけあり、社務所の対面には馬神と書かれた立派な台座が残っている。台座上面には鉄筋が2本出ているので、大きな馬の像があったものと想像される。参道脇には「養蚕興隆参拝碑」や「出征愛馬碑」が立っている。これらの先に座像があり、細い小径となる。参道と呼ぶにはいささか心もとない小径である。











境内前に社務所がある。


遊歩道沿い
拝殿正面から左手に中部北陸自然歩道の標識が立っている。この小径を僅か下りた右手にひな壇がある。清法講と書かれた碑文がある。







来た道を下り、拾い道に沿って下りてくると地図の青線の道路②にでて、赤線の道路に接続する。


駒ケ岳講の成り立ち
木曽駒ヶ岳の山岳信仰において、寂本(じゃくほん)、心明(しんめい)、神官徳原(とくはら)は、それぞれ異なる時代や立場から「開山」や「信仰の普及」に寄与した極めて重要な人物になる。
神官・徳原(徳原長大夫春安 / とくはら ちょうだゆう はるやす)【上松の駒ヶ岳神社の祖・歴史的開山者】
時代: 戦国時代(天文元年・1532年頃)
役割: 上松の神官。天文元年に木曽駒ヶ岳の頂上に「保食大神(うけもちのおおかみ)」を祀る社を建造したと伝えられる。
功績: 同時に、山の麓の穂原地区に「里宮」(現在の駒ヶ岳神社のルーツ)を建立した。これにより、山頂の「奥宮」と麓の「里宮」という信仰の形が整う。上松Aコースが「信仰の道」として確立されたのは、この徳原氏の功績が非常に大きい。
寂本行者(じゃくほんぎょうじゃ)【伊那側からの開山と宝剣岳の信仰】
時代: 江戸時代後期(文化8年・1811年頃)
役割: 信州下諏訪の行者。
功績: 伊那側(宮田口など)からの登山道を切り拓き、険しい宝剣岳の頂上に鉄の「錫杖(しゃくじょう)」を奉納したことで知らる。
背景: 御嶽山の開山者である覚明行者や普寛行者の影響を受けた世代であり、それまで修行者の場だった駒ヶ岳を、より広く民衆の信仰対象へと広げる役割を果たした。
心明行者(しんめいぎょうじゃ)【民衆信仰の普及と「講」の拡大】
時代: 江戸時代後期
役割: 駒ヶ岳信仰を広めた有力な行者の一人。
功績: 寂本行者らと共に、あるいはその流れを汲んで、各地に「駒ヶ岳講(信者の集まり)」を組織した。
背景: 「法泉講」などの講社が、遠方(尾張など)から大挙して訪れるようになった背景には、こうした心明行者のような人物が各地で布教を行い、「駒ヶ岳へ登れば救われる、豊作になる」という信仰を根付かせた努力がある。
徳原一学(とくはら いちがく)【駒ケ岳講を全国展開】
この後、徳原一学が駒ケ岳講を全国展開した。その活動は以下の3つに大別される。この活動により、戦国時代に徳原長大夫春安が開山した駒ケ岳が、それからおよそ300年後に駒ケ岳講のメッカとして確立した。
駒ヶ岳講の全国展開と組織化
徳原一学の最大の功績は、それまで地域的だった駒ヶ岳信仰を、愛知(尾張)、岐阜(美濃)、三重(伊勢)などの遠方へ広め、強力な「講(信者組織)」としてまとめ上げたことで、結果として神社を経済的にも精神的にも支える基盤が出来た。
「太々神楽(だいだいかぐら)」の伝承
現在、上松町の無形民俗文化財に指定されている「駒ヶ岳神社太々神楽」を江戸時代に伊勢神宮などの流れを汲んで整え、神社に定着させ、遠方からやってくる講の人々のために、登山の安全を祈願してこの神楽を奉納するスタイルを確立した。遠方の信者は「わざわざ上松まで行く価値がある」と感じ、信仰が長くことに寄与した。
信仰の道(上松Aコース)の整備
徳原家は代々、登山道の管理も担っていたが、一学の時代に多くの講が登山に訪れるようになったため、登山道の整備や石碑の建立、休憩所の管理などをより組織的に行うようになった。現在の上松Aコースはこの時期に完成されたと言える。
同時期に発展した御嶽講との関係で考えれば、奥原一学の目指したものは、御嶽講が木曾福島、三岳、王滝にもたらした恩恵を上松町にもたらそうとした活動だったと見ることが出来る。
上松Aルート登山口駐車場前
次に上松Aルート登山口駐車場の霊場に行った。ここにも駒ケ嶽神社と石碑ひな壇がある。「駒ケ岳関山 神明霊神 乾山講」と書かれたのぼりが立っている。











ここにも駒ケ嶽神社がある。ここで特徴的なのは特に天龍大権現大神が祀られている事だ。加えて正面に保食大神の碑もある。






天龍大権現
天竜大権現は、その名の通り「天を駆ける龍」の神格化である。山岳信仰において、高い山から流れ出る水は農業や生活に不可欠な「命の源」であり、龍神はその象徴である。
- 雨乞い・止雨の信仰: 木曽駒ヶ岳周辺の農民にとって、水害を防ぎ、必要な雨を降らせるための祈祷の対象。
- 神楽との関わり: 駒ヶ岳神社に伝わる「太々神楽(だいだいかぐら)」の中には、雨を止め晴天を祈る「止雨武多井舞(しうむたいのまい)」があり、天竜大権現のような水の神への祈りと深く結びついている。
ここは敬神の滝の近くで、荒れ狂う滑川の河岸でもある。そういった事からも、この地に天龍大権現が祀られていると推測される。
保食大神(うけもちのおおみかみ)
Wikipediaでの保食神に関する解説:
保食神(うけもちのかみ)は、日本神話に登場する神である。『古事記』には登場せず、『日本書紀』の神産みの段の第十一の一書にのみ登場する。神話での記述内容[1]から、女神と考えられる[2]。
神話での記述
天照大神は月夜見尊に、葦原中国にいる保食神という神を見てくるよう命じた。月夜見尊が保食神の所へ行くと、保食神は、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらで月夜見尊をもてなした。月夜見尊は「吐き出したものを食べさせるとは汚らわしい」と怒り、保食神を斬ってしまった。それを聞いた天照大神は怒り、もう月夜見尊とは会いたくないと言った。それで太陽と月は昼と夜とに分かれて出るようになったのである。
天照大神が保食神の所に天熊人(アメノクマヒト)を遣すと、保食神は死んでいた。保食神の屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれた。天熊人がこれらを全て持ち帰ると、天照大神は喜び、民が生きてゆくために必要な食物だとしてこれらを田畑の種とした。その種は秋に実り、この「秋」は『日本書紀』に記された最初の季節である。また大神は蚕の繭を口に含んで糸をひき、これが養蚕の始まりとなった。牛馬については特に説明されていない。
石碑の種類
石碑に彫られている名前には3種類ある。以下の駒嶽神社の写真には3種類全てが揃っている。奥中央に駒嶽大神、その右に寂本霊人、左に清法院天新行者、智寛行者、宝正行者と続き、その前のひな壇には霊心碑が並んでいる。

1. 「神名」碑
【目的:信仰の対象・祈願】 特定の神様そのものを祀ったもの。
- 見分け方: 「駒嶽大神」などの神名が大きく刻まれている。
- 意味: 講員が拝むための「道中の拝所」として設置された。
2. 「霊神」碑
【目的:死者供養・先祖崇拝】 先祖や死者を祀ったもの。
- 見分け方: 名前の下に「〇〇霊神」と刻まれている。
- 意味: 講の信者が亡くなった後、魂が木曽駒ケ岳に還り、神の一柱(ひとり)となったことを示す。いわば山にあるお墓で、親族・関係者にとってお参りの対象となる。
3. 「行者・先達」碑
【目的:指導者の顕彰・記念】 講を率いたリーダーを讃えるもの。
- 見分け方: 名前の上下に「行者」または「先達 〇〇」といった修行の階級が刻まれている
- 意味: 行者や先達の功績を後世に伝えるために設置された。
「業績」碑
【目的:講の業績記録】 講の業績を他講を含む多くの人々に示すもの。
- 見分け方: 登山三十三回などと刻まれている。
- 意味: 講の活動成果を広く後世に伝えるために設置された。

上の写真の右側の三十八度の下に乾山講社 大先達 川村庄八と書かれている。
講ごとに良い場所を確保し、より多くの石碑を立てるためにひな壇となっている。

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